シリーズ「Nouvelle Artisan」④

料理人と経営、2つの視点で目指したい新しいシェフ像

丸山和孝
(Restaurant TOYO Tokyo シェフ)

フランス語で「職人」を意味する「artisan」と、芸術家を意味する「artiste」とよばれる存在は、1793年と1806年の法律で身分が定義されて以来、フランスでは分けて考えられるようになった。しかし、中世で両者は「arts(技術)」をもつ技術者として同様に扱われており、階級社会が崩れた現代では、職人のなかにも芸術性が存在することが主張されるようになった。

本来「技術者」を意味するArtisanの姿は、時代に合わせて変っていくとしたら、現代はどんな姿なのか。Restaurant TOYO(以下、TOYO)で活躍するアルチザンたちの話から、新しい職人(Nouvelle Artisan)の姿を浮かび上がらせようとするシリーズの第4回は、2022年2月にRestaurant TOYO Tokyoのシェフに就任した丸山和孝に話を聞く。

日本人初のパリ二つ星シェフの生き方に憧れてフランスへ

2022年2月、Restaurant TOYO Tokyoの2代目シェフに就任した丸山和孝は、現在30歳。11月に31歳の誕生日を迎える。

2018年3月にオープンしたRestaurant TOYO Tokyoにとって丸山は、統括支配人の成澤亨太とともにオープニングを知るだけでなく、パリのRestaurant TOYOでシェフの中山豊光氏とともに働いた経験がある現時点で唯一のスタッフでもある。

「TOYO-ISM」(トヨイスム)があるとすれば、丸山は純粋な継承者といえるだろう。高校卒業後、料理の道に入った丸山が、どのようにしてパリのRestaurant TOYOの扉を開けることになったのか。話は、2013年までさかのぼる。

当時丸山は、横浜・みなとみらいにある「パンパシフィック横浜ベイホテル東急」(現・横浜ベイホテル東急)内のフレンチ・レストラン「クイーン・アリス」で4年半ほど勤務をしていた。シェフの田面山博憲氏に師事し、デザートや前菜、焼き場、ソースまで一通りの部門を経験したことで、環境を変えて挑戦してみたいと思うようになっていた。

そんな時に、パリで当時日本人シェフとして唯一の二つ星を獲得していた「パッサージュ53」の佐藤伸一シェフが出演していた『情熱大陸』(2013年4月28日放送)をテレビで観た。

「こういう生き方がしたいと思ったんです。二つ星を獲りたいという目的ではなく、フランス料理の本場で二つ星を獲るという生き方。それから、佐藤シェフの師である、パリの名店『アストランス』のパスカル・バルボ シェフなどを知ることになって、フランスに対する意識が変りました。その時までも一生懸命料理は作っていましたが、それ以上に『料理を突き詰めたい』、『料理人ってなんだろう』と考えるようになったんです」

それから半年後の11月、丸山は観光ビザでフランスのブルゴーニュ地方の街、ディジョンに渡った。ディジョンでは、ワインの販売店に付属する地元の人たち向けの飲食店で働いていた。

「ディジョン・マスタード」で知られ、ワインの世界的産地ブルゴーニュのパリからの入口にもあたるディジョンは、歴史的建造物が残る古都として知られている。しかし、丸山曰く「基本的にディジョンは、地方の田舎街」。人としゃべる機会も少なく、なかなか言葉も覚えられずにいた。そもそも、飲食店も営業しているようで営業していない状態でもあり、丸山はもの足りなさを強く感じていた。

ディジョンで1カ月が過ぎた頃に、丸山の母の知り合いの息子で、パリ働く楠賢東氏から、「今勤めているRestaurant TOYOを辞めるので空きが出る、パリに来ないか?」という誘いを受けた。丸山は、すぐさまパリに向かいRestaurant TOYOの扉を開き、厨房で働き始めることになる。

「楠さんとは、結局1週間ぐらいしか一緒に働けませんでしたが、声をかけてもらって本当によかったです。パリで年越しをしてから、いったん帰国してワーキング・ホリデーを使ってビザを取得して、再びパリに戻ったんです」

丸山の実家は、料理店を営んでいた。料理人だった父、接客をする母の影響から料理人を目指すようになった。「小さいときに親の仕事している姿をほとんど見たことがなかったんですね。忙しかったので、一人でいることも多かったです。だからこそ両親が仕事をしている世界に興味が生まれたというのもあると思います」と丸山。

「自分はできる」という自信がTOYOでボコボコに打ち砕かれる

ようやく思い描いたような料理人としてのステップが踏める。そんな嬉しさが丸山の胸にあったが、実際は、それほど簡単な状況ではなかった。

「自分が天狗になっていたとは思わないですが、それでも日本で4年半一通りやってきたので『できるだろう』という思いがボコボコに打ち砕かれました。キッチンの中で仕事もできないし、賄を作れば『まずい』といわれる。毎日トヨさん(中山豊光氏)や、スーシェフの水口啓介さんにお説教を受けていましたよ。ただ頭ごなしにしかりつけられてるわけではなくて、きちんと『何がいけないか』を話してくださったのは、とてもありがたいことでした」

「とにかく悔しかった」と当時を振り返る丸山。パリでは、Restaurant TOYOの店の上に住んでいたこともあって料理に集中できる環境にあった。とにかくやり切りたい、そんな思いを胸に、朝は誰よりも早く店に入り、夜も遅くまで仕込みをする。毎日の睡眠は2時間程度、圧倒的に料理に集中する日々を1年間過ごすなかで、丸山は着実に成長していった。

2015年に帰国した丸山は、再びパリに渡り、Restaurant TOYOで働く準備をしながら、都内の飲食店やレストランを渡り歩いていた。

「TOYOで働いていて感じたのは、自分は『普通の料理ができない』ということ。手をかけたフレンチをやっているからなのか、どこかバカにしていたところがあったと思います。だけど、料理人であればどんな料理もおいしく作れないとだめ。『普通の食事』を学びたいという意識がありました」

料理店を営んでいた丸山の実家は、父が料理人で、母が接客。丸山がパリから帰国してきた当時は、渋谷にある企業向けの社員食堂を開いていた。その厨房に入って牛丼やトンカツなどの日々の料理を作り、料理人としての腕を磨いていく。

また、横浜の老舗フランス料理店「ストラスヴァリウス」を営む小山英勝氏の元でも学び、当時あったカジュアルスタイルの姉妹店「ストラスジュール」(現・ストラスヴァリウスに統合)のキッチンを一人で担当してオペレーション作りを学ぶなどし、料理人としての「基礎体力」をつけることを目指していた。

ストラスジュールで半年以上勤めていたときに、現・TOYO JAPANのオーナーである阿部洋介から「Restaurant TOYO Tokyoのプロジェクトに参画してもらえないか」という電話が入った。

最初の職場だったクイーン・アリスでは、最初のうちこそ「辛い」と感じることもあったが、仕事を覚えていくと、次第に仕事が楽しくなってきたと丸山。「年齢が皆さん15歳以上離れているんですね。先輩にコーヒーを出すのも、一人一人の好みに合わせて味をかえてださないといけない。そういうのをやっていく内にコミュニケーションが生まれていくんですよね。『ああ、社会ってこういうものなんだ』と肌で感じることができました」。

スーシェフは「シェフを引き立てる役」。シェフには料理に集中してもらいたい

「Restaurant TOYO Tokyoを手伝ってほしい」という電話は、パリの中山シェフからもあった。就労ビザの取得を待ってパリに戻ることを考えていた丸山にとって複雑な気持ちではあったが、新店舗の立ち上げに関われることは魅力的でもあった。初代シェフの大森雄哉氏と出会ったのもこの頃である。

開業前のトレーニング期間では、再渡仏してRestaurant TOYOに“帰る”こともできた。「よしやってやる」という意識を高めて臨んだこの3カ月間は、目標に向かって黙々と日本で努力してきたことの答え合わせの期間でもあった。答え合わせができたことで、胸の内が整理されたこともあっただろう。以後、Restaurant TOYO Tokyoのスーシェフ(副料理長)として、邁進していくことになる。

2018年3月のオープンの時、丸山は26歳。チームの中で最年少ながら2番手(スーシェフ)についたのは業界では異例の抜擢といえるだろう。しかし、当の本人は「自分が何かを成し遂げているわけではないので、とにかく目の前のことをするので必死でした」と振り返る。

スーシェフという役職を丸山は「シェフを引き立てる役目」と考えている。シェフが持つ料理のテクニックや発想といったものが、シェフの中の引き出しにしまわれているとすれば、それを引き出しやすくさせる。そのためには仕込みや仕入れ、ときには原価管理までをこなして、料理だけに集中してもらう。シェフを引き立てること自体は、パリのRestaurant TOYOでもやってきたことで、シェフが最大限に力を発揮できる環境を作り出すことで、Restaurant TOYOのような自由でおおらかな料理と空間が生まれると感じていたからでもあった。

「はじめのうちはシェフの大森さんの料理がわからず苦労しました。人柄やフィーリングはわかっていても、本当の意味での大森さんの料理がわからなかったのです。でもそこは結局は時間が解決してくれました。大森さんも初めてのシェフということで悩みながらやっていらしたのだと思います。新しいひと皿が完成したら、『他に何かできることあるかな?』と相談してくださるので、二人で意見を交換しながらひたすら考えていく。そんななかで、大森さんの料理というものが理解できてきたのだと思います」

Restaurant TOYO Japanのオープン当時の丸山(左から2人目)。

来日した中山氏(写真中央)は、シェフの大森氏(写真右)と築地をまわった際にもスーシェフとして帯同した。

パリのトップデザイナーである故・髙田賢三氏とは、中山豊光シェフが専属シェフを務めていた縁で会う機会が多かったという。「KENZOさんがパリにきて50周年のパーティーの際の写真です。国際的な映画に出演されているような著名な女優や俳優、モデル、デザイナーなど、あらゆるジャンルの著名人が来ていたパーティーでした。超一流の世界で活躍されているKENZOさんの凄さを改めて知る機会でした」と丸山。

TOYO Tokyoの歴史は、大森シェフとふたりで作り上げてきた

初代の大森氏からシェフを引き継いで4カ月ほど経った今、「大森氏のシェフとしての苦悩が何だったのか。少しずつ理解できるようになってきたと思っています」と丸山はいう。

「『TOYOの料理って何なんだろう?』というのは、オープンから2年目ぐらいまで、2人のなかでも明確な答えがありませんでした。そもそもパリのトヨさんが『料理の型』のようなものを持たない方なので、どうしたら『TOYOの料理』といえるのだろう、と考え続けていたのですが、『自分たちで作りあげたものがTOYOの料理なんだ』ということにやっと辿り着けたんです」

Restaurant TOYO Tokyoの歴史としては大森氏と二人で作ってきたという自負が、丸山にはある。スーシェフとしての仕事をやりきってきた思いもあるし、大森氏からの信頼も感じていた。「自分たちで作りあげたものがTOYOの料理なんだ」という思いも、決して驕りではなく、二人だから到達できたものだとも考えている。

しかし一方で、シェフという一番上の立場に求められる「答えを出す」ということ、そのときの孤独感だけは決してわかり得ないことだった。それは、いまシェフになって強く感じているものだ。

「大森さんの本当の悩みがようやくシェフになって理解できた気がします。『答え』がわからないなかで『答え』を出さないといけない。答えを出さないと仕込みができない、営業ができない、チームが前に進めないんです。今、自分自身でもそこに苦労しています、『答えを出す』ことは不安で怖いことなんですね」

しかし大森氏が「自分たちで作りあげたものがTOYOの料理なんだ」という答えを出したことで、それ以降のRestaurant TOYO Tokyoの料理1品1品に対するブレがなくなっていったことも丸山は経験している。時間はかかるかもしれないが、丸山らしい答えがでることを、多くの人が期待している。

大森氏と丸山が、完成させたRestaurant TOYO Tokyoを代表するひと皿「魚のカルパッチョとろろ昆布とサラダセロリ」。丸山が自分たちらしい料理として思い入れもある。「もともとは、日本料理のお造りのように、切り身だけを盛り付けていたときもありました。そこから、日本人にフレンチとして食べてもらうならどうしていったらいいかと、足したり引いたりを繰り返して、今の仕立てに辿り着いたんです」。

「シェフとしての立場に立つことが大事だと思っています。自分が変わることで、まわりがかわっていくと思うんです。自分を引き出せるような環境ができたらと思っています」と丸山。

チームだからこそ生み出せる最高の料理を変らず作り続けたい

「自分がシェフになったからといって変わることはなくて、チームでやっていきたいですね。やっぱり一人でやることには限界があります。チームだからこそできる料理の完成度を高めていきたいです。大森さんがシェフのときもチームで助け合って作ってきました。それは、実はトヨさんからの教えでもあります。何もできない僕にも、上の人たちから『あれできるか?』『これできるか?』と声をかけてくれるのはパリのRestaurant TOYOの良さだし、人としての愛だと思うので、継承していきたいですね」

高校を卒業後、横浜で働いた4年半、パリでの1年、そしてRestaurant TOYO Tokyoでの4年。横浜のクイーンアリス時代には、料理人として以上に社会人としてのあり方を学んだ。パリでは、料理人として人間としての自分自身を見つめる時間だった。そして、大森氏との4年間は料理人としての哲学を追求する時間だった。

そしてもう一つ、丸山はRestaurant TOYO Tokyoで「原価管理」を学ぶことができたことは大きかったという。Restaurant TOYO Tokyoを運営するTOYO JAPANの代表である阿部洋介から表計算を使った原価管理を教わり、整合性のあるレストラン運営の重要性も教えられた。

「たとえばですが、大森さんが食材に対してお金をかけるタイミングがあるんです。当然それを補うために押さえるタイミングもある。シェフにとって原価をかける瞬間に、ここは外せないというカンのようなものがあるんだと思うんです。そういうのも原価を見ていくとわかってくる。言語化されていないことも数字で見えてくるからおもしろいですね」

原価を見続けてきたことで、勉強のためと出かけるレストランでの食事も、見方が変わってきた。

「原価は低いけど、これだけのクオリティが出せているのはどうしてだろうとか、逆に原価をかけているけど……と感じるときもあります。シェフとしての視点とレストラン経営者のような視点の2つで見ているので、人気レストランのどこがすごいのかというのが多面的に見えるようになったと思います」

料理人として13年目になった丸山は、行く先々で学ぶことや課題が明確にあり、それを乗り越えることで成長をしてきた。その一つの集大成として、きっとRestaurant TOYO Tokyoでも前任の大森氏とは違った、新しいバランス感覚の新時代のシェフ像を提示してくれることだろう。

「シェフになってから毎週トヨさんからたわいのない電話がパリからかかってきます。本当にたわいもないお話をしながら、『思いっきりやったらいいよ』って声をかけてくださいます。トヨさんも不器用な方なので、多くは語られないのですが、気にかけてくださって本当にありがたいです。社長の阿部からも、『自分がしたいことをやったらいい』といってもらっていますし、大森さんからも『思いっきりやればいい』といわれています。しかし、『やりたいように』というのは、とても奥が深い言葉ですよね(笑)。思っている以上にやりたいようにやるのは大変。そのひと言に、なかなか辿りつききません。ですが、少しずつあせらずに、まずはチームのみんなが料理に集中できる環境を作っていきたいと思っています」

丸山和孝|Kazutaka Maruyama

1991年、神奈川県出身。高校を卒業、「パンパシフィック横浜ベイホテル東急」(現・横浜ベイホテル東急)内のフレンチ・レストラン「クイーン・アリス」に入社。シェフの田面山博憲氏に師事し、料理人としてだけでなく社会人としての基礎を学ぶ。パリで当時日本人シェフとして唯一の二つ星だった「パッサージュ53」の佐藤伸一氏のドキュメンタリー番組を観たことをきっかけに、フランス料理人を突き詰めていきたいと考え、2013年、22歳で単身渡仏。中山豊光氏がオーナーシェフを務める「Restaurant TOYO Paris」で1年間研鑽を積む。帰国後は家業の食堂の手伝いやフレンチ・レストランの料理人をしながら再渡仏の準備を進めた。2017年に立ち上げた「Restaurant TOYO日本進出プロジェクト」に、パリの中山氏の推挙で参画。開業前に再度渡仏し、「Restaurant TOYO Paris」で、初代シェフ(大森雄哉氏)と共に開業準備のトレーニングを受ける。2018年3月の「Restaurant TOYO Tokyo」のオープン時から、スーシェフ(副料理長)としてシェフを支える。2022年2月、2代目シェフに就任した。